3/20(sat)-21(sun) あいまい3cm

あたまがぐあんぐあん概念樹立10周年記念個展
Guest:haruhisa tanaka,exportion,omukaedegonsu

Entrance:1,000円 + drink

あたまがぐあんぐあんという概念を樹立して10年経ちました。2010年に出会ったネットレーベルやカオス*ラウンジに強烈な影響を受けてクラブVJ、映像作家として活動してます。ここ数年はあまり積極的に表舞台に出る事はなく、年に数度依頼を受けたVJと映像制作を淡々とこなしていました。自分の表現したい事と大きなステージで求められている事が乖離してきたことが理由でした。まあ自分にはそれらに見合うグラフィックや3Dレンダリング、高額なプロジェクターやカメラを持ち合わせてなかったからでもありますけど。ただ最近ふと考えることがあります。自分のやりたかった事、つまり2010年に感じたあのリアルは一体何だったのだろう、と。世界と映像を取り巻く環境は変わり続けています。フェイクニュースでは無加工の写真を都合よく切り取られるだけでなく都合の良い編集が加えられ扇動を企てるアイテムとして扱います。ディープフェイクの技術は一般的になりつつあり、有名人、無名、匿名問わずポルノ映像にすることが容易くなりました。確かに写真や動画を都合よく切り取りミスリードに誘うような技法は、はるか昔から存在していました。むしろ印刷技術や映像技術の発展と表裏として存在していました。しかし、発信者と受信者が多対多になり動画の送受信が容易くなり、真実を記録する装置としての機能から何かに変化しているしているように感じます。その何か、とは何か。それは欲望の裏付けなのではないかと思いました。個人が信じたい世界や自分から見えている世界の構築と共有なのではないのでしょうか。私が見ているものを隣の人は必ずしも同じ質感や意味合いで捉えていない。落語に「抜け雀」という噺があります。とある高尚な画家が描いた雀の絵があまりに躍動感があるために命を宿し、屏風から抜け出してしまう、というあらすじです。文章でこう書くと陳腐な内容に感じられるかもしれませんが、名人がこの話をすると現実的なイメージと非現実的な絵が自然と同居してイメージできるのです。夢の話もそうです。あれほど違和感のなかった夢も、言葉で他人に説明しようとすると、あまりに陳腐に聞こえてしまう。話は戻りますが、自分の感じていたリアルとは「あいまい」であるということ。現実は、真実は受信者が何とでも解釈し、称賛し非難するもの。捉え所のない夢の話と実はそれほど差異はないのではないのか。僕の中のあいまい、2次元的なものと3次元的なもの、現実のもの非現実なものが同居する世界こそ僕が感じる「リアル」でした。僕の中で、それを具現できるもの、具現していると感じ得たものがグリッチでした。いわば真実と虚構の接着剤のようなアイテムです。用意した様々な素材を接着剤で歪につっくけ、新種の原子のように一瞬でもくっつけるようにぶつけ合う、ぶつけ合っては次の瞬間にはまた別のイメージどうしをぶつけあう、化学反応を試す実験の連続のような映像制作を行っています。頭で整理できないあいまいで朦朧とした状態、あたまがぐあんぐあん。個展と銘打っていますが、展示するものは作品ではなく僕のパフォーマンスであったり、態度になります。あいまいなもので包み込んだ空間の方が現実よりリアルなものを表現できるのではないかと、いう実験です。現実や真実ってスカートの膝丈3cmの校則くらいあいまいで不確かなもの。それぷにってことかい?

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